忠義《ちゅうぎ》な従者《じゅしゃ》

落城後《らくじょうご》の私《わたくし》は女《おんな》ながらも再挙《さいきょ》を図《はか》るつもりで、僅《わずか》ばかりの忠義《ちゅうぎ》な従者《じゅしゃ》に護《まも》られて、あちこちに身《み》を潜《ひそ》めて居《お》りました。領地内《りょうちない》の人民《じんみん》も大《たい》へん私《わたくし》に対《たい》して親切《しんせつ》にかばってくれました。――が、何《なに》を申《もう》しましても女《おんな》の細腕《ほそうで》、力《ちから》と頼《たの》む一|族《ぞく》郎党《ろうとう》の数《かず》もよくよく残《のこ》り少《すく》なになって了《しま》ったのを見《み》ましては、再挙《さいきょ》の計劃《けいかく》の到底《とうてい》無益《むやく》であることが次第次第《しだいしだい》に判《わか》ってまいりました。積《つ》もる苦労《くろう》、重《かさ》なる失望《しつぼう》、ひしひしと骨身《ほねみ》にしみる寂《さび》しさ……私《わたくし》の躯《からだ》はだんだん衰弱《すいじゃく》してまいりました。 幾月《いくつき》かを過《すご》す中《うち》に、敵《てき》の監視《みはり》もだんだん薄《うす》らぎましたので、私《わたくし》は三崎《みさき》の港《みなと》から遠《とお》くもない、諸磯《もろいそ》と申《もう》す漁村《ぎょそん》の方《ほう》に出《で》てまいりましたが、モーその頃《ころ》の私《わたくし》には世《よ》の中《なか》が何《なに》やら味気《あじけ》なく感《かん》じられて仕《し》ょうがないのでした。 実家《さと》の両親《りょうしん》は大《たい》へんに私《わたくし》の身《み》の上《うえ》を案《あん》じてくれまして、しのびやかに私《わたくし》の仮宅《かりずまい》を訪《おとず》れ、鎌倉《かまくら》へ帰《かえ》れとすすめてくださるのでした。『良人《おっと》もなければ、家《いえ》もなく、又《また》跡《あと》をつぐべき子供《こども》とてもない、よくよくの独《ひと》り身《み》、兎《と》も角《かく》も鎌倉《かまくら》へ戻《もど》って、

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