御神体《ごしんたい》として

『お爺《じい》さま、何《ど》うぞ私《わたくし》に一《ひと》つの御神鏡《ごしんきょう》を授《さず》けて戴《いただ》き度《と》う存《ぞん》じます。私《わたくし》はそれを御神体《ごしんたい》としてその前《まえ》で精神《せいしん》統一《とういつ》の修行《しゅぎょう》を致《いた》そうと思《おも》います。何《なに》かの目標《めあて》がないと、私《わたくし》にはとても神様《かみさま》を拝《おが》むような気分《きぶん》になれそうもございませぬ……。』『それは至極《しごく》尤《もっと》もな願《ねが》いじゃ、直《ただ》ちにそれを戴《いただ》いてつかわす。』 お爺《じい》さまは快《こころよ》く私《わたくし》の願《ねが》いを入《い》れ、ちょっとあちらを向《む》いて黙祷《もくとう》されましたが、モー次《つ》ぎの瞬間《しゅんかん》には、白木《しらき》の台座《だいざ》の附《つ》いた、一|体《たい》の御鏡《みかがみ》がお爺《じい》さまの掌《てのひら》に載《の》っていました。右《みぎ》の御鏡《みかがみ》は早速《さっそく》岩屋《いわや》の奥《おく》の、程《ほど》よき高《たか》さの壁《かべ》の凹所《くぼみ》に据《す》えられ、私《わたくし》の礼拝《らいはい》の最《もっと》も神聖《しんせい》な目標《もくひょう》となりました。それからモー四百|余年《よねん》、私《わたくし》の境涯《きょうがい》はその間《あいだ》に幾度《いくど》も幾度《いくど》も変《かわ》りましたが、しかし私《わたくし》は今《いま》も尚《な》おその時《とき》戴《いただ》いた御鏡《みかがみ》の前《まえ》で静座《せいざ》黙祷《もくとう》をつづけて居《お》るのでございます。[#9字下げ]十、親子の恩愛[#「十、親子の恩愛」は中見出し]参考《さんこう》の為《た》めに少《すこ》し幽界《ゆうかい》の修行《しゅぎょう》の模様《もよう》をききたいと仰《お》っしゃいますか……。宜《よろ》しうございます。

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