格別《かくべつ》の相違《そうい》

私《わたくし》の存《ぞん》じていることは何《なに》なりとお話《はな》し致《いた》しますが、しかし現界《げんかい》で行《や》るのと格別《かくべつ》の相違《そうい》もございますまい。私達《わたくしたち》とて矢張《やは》り御神前《ごしんぜん》に静座《せいざ》して、心《こころ》に天照大御神様《あまてらすおおみかみさま》の御名《みな》を唱《とな》え、又《また》八百万《やおよろず》の神々《かみがみ》にお願《ねが》いして、できる丈《だけ》きたない考《かんが》えを払《はら》いのける事《こと》に精神《こころ》を打《う》ち込《こ》むのでございます。もとより肉体《にくたい》はないのですから、現世《げんせ》で行《や》るような、斎戒沐浴《さいかいもくよく》は致《いた》しませぬ。ただ斎戒沐浴《さいかいもくよく》をしたと同一《どういつ》の浄《きよ》らかな気持《きもち》になればよいのでございまして……。 それで、本当《ほんとう》に深《ふか》い深《ふか》い統一状態《とういつじょうたい》に入《はい》ったとなりますと、私《わたくし》どもの姿《すがた》はただ一《ひと》つの球《たま》になります。ここが現世《げんせ》の修行《しゅぎょう》と幽界《ゆうかい》の修行《しゅぎょう》との一ばん目立《めだ》った相違点《そういてん》かも知《し》れませぬ。人間《にんげん》ではどんなに深《ふか》い統一《とういつ》に入《はい》っても、躯《からだ》が残《のこ》ります。いかに御本人《ごほんにん》が心《こころ》で無《む》と観《かん》じましても、側《そば》から観《み》れば、その姿《すがた》はチャーンと其所《そこ》に見《み》えて居《お》ります。しかるに、こちらでは、真実《ほんとう》の精神統一《せいしんとういつ》に入《はい》れば、人間《にんげん》らしい姿《すがた》は消《き》え失《う》せて、側《そば》からのぞいても、たった一《ひと》つの白《しろ》っぽい球《たま》の形《かたち》しか見《み》えませぬ。人間《にんげん》らしい姿《すがた》が残《のこ》って居《お》るようでは、まだ修行《しゅぎょう》が積《つ》んでいない何《なに》よりの証拠《しょうこ》なのでございます。『そなたの、その醜《みぐ》るしい姿《すがた》は何《なん》じゃ! まだ執着《しゅうじゃく》が強過《つよす》ぎるぞ……。』私《わたくし》は何度《なんど》醜《みぐ》るしい姿《すがた》をお爺様《じいさま》に見《み》つけられてお叱言《こごと》を頂戴《ちょうだい》したか知《し》れませぬ。

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