ある雨の降る晩

 私が夜更に眼をさましますときっと大奥様はお起きになっていらっしゃいます。大抵は大旦那様のお居間にお在《い》でになります。そこには大旦那様のお油画の大きなのが掲げてございます。その前にお座りになり、御肖像に向ってさめざめと泣いて入らっしゃるのでございます。お可哀想で見て居られませんでした。それは毎夜の事でございましたが、後にはお気が変におなりになったのではあるまいかと、疑った事もございました。 ある雨の降る晩でございました、いつものように、私はそっと襖の蔭から覗きますと、大奥様は早口で何か御肖像にお話しかけていらっしゃいました。時々は淋しい笑《えみ》をさえお洩しになります。雨の戸を打つ音でお言葉は断続してよくきき取れませんが、何とも云えない寂しさに我知らず身震いいたしました。 大奥様の御病気はそう御重態というほどでもございませんが、一向はかばかしくはお癒《なおり》になりません。お医者様からは厳重に絶対安静を申渡されました。夜は申上げたような次第ですが、日中はおとなしくお床の上に休んでいらっしゃいました。 ある日、大奥様は一度大旦那様の御墓参がしたいと仰しゃいました。お医者様に御相談すれば無論いけないと申されるに定まって居ます。しかし大奥様は何と申上げてもお聴きになりません。已むなくお天気の好い日の暖かい時刻を計って、お医者様には内密《ないしょ》で、私がお伴をしてお墓参りにまいることにいたしました。 型の通りお墓の前に香花《はな》を捧げ、本堂に立寄られるまでは無事でございましたが、今度は本堂裏のお位牌堂にお参りしたいと仰しゃるのでございます。人気のないお寺は華やかに飾った本堂でも、余りいい気持のものではございませんが、お位牌堂ときては陰気で、薄暗くて、湿めっぽくて、まるで地獄の入口のような気がいたします。 已を得ず後に従いて参りますと、床は塵垢《ほこり》の上に鼠の糞、時々顔を撫でるのは蜘蛛の巣でございます、人の気配に驚いて逃げ廻る鼠の音にも私は縮み上りました。小さい窓からさし込む陽の光がその一室を一層青白い寂しいものにして居ります。大奥様は平気で歩いていらっしゃいましたが、中ほどの右側を指して、突然頓狂なお声で仰しゃいました。「あすこに旦那様がいらっしゃる」

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