天城山より笠山まで

[#3字下げ]天城山より笠山まで[#「天城山より笠山まで」は中見出し]

 むかし太田道灌が始めて江戸城を築いた時、城上に間燕の室を置て之《これ》を静勝軒と名付け、東は江戸湾を望み西は富士秩父の連嶺を軒端に眺めた所から、東を泊船亭と曰《い》い西を含雪斎と曰うたとのことである。静勝軒を題として記述した詩文に、「西嶺当[#レ]※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]雪界[#レ]天」、又は「西望則逾[#二]原野[#一]而雪嶺界[#レ]天」とある句は、蓋《けだ》し実景をよんだもので、雪嶺或は西嶺は富士山を指したものに外なるまい。道灌は風流二千石といわれた程あって、歌も上手によみ、扇谷の老臣として軍旅に忙しい身でありながら、よくこの静勝軒で歌合や連歌の会などを催した。元より泊船亭や含雪斎の名は、「※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]含[#二]西嶺千秋雪[#一]、門泊[#二]東呉万里船[#一]」という詩句から取ったものであろうが、当時の江戸城は今の宮城内に在る元の本丸の地であったということであるから、眺望の広闊なることは言う迄もないことで、富士は更なり遠い赤石山脈の悪沢《わるさわ》岳や荒川岳(塩見岳)の七月上旬に於ける残雪は、恐らく含雪斎の主人公をして、西嶺千秋雪の感を深からしめたことであろうと思う。

[#ここから2字下げ]我庵は松原つつき海近く富士の高根を軒端にそ見る[#ここで字下げ終わり]

という歌は、静勝軒の大展望観の一部を歌ったものに過ぎないとしても、江戸城の創建者が其処《そこ》から見られる山に対して可《か》なりの注意を払ったであろうことが想像されるのである。 道灌が江戸城を築いた頃は、月の入る可《べ》き隈もなしと歌われた通り、武蔵野は一望曠漠たる茅原か又は雑木林で、展望を遮る高い建物や、石炭の煙などは皆無であったから、静勝軒からは居ながらにして、いつも(恐らく)山を望むことが出来たであろう。併《しか》し今の東京となってからは、そうは行かなくなった。殊に彼の煤煙は最も邪魔物であるから、少くとも東京から山を望むには、空気が乾燥して透明である冬季の晴れた日という一般的条件の外に、煤煙を一掃する為に可なり強い風が吹くという条件を伴う必要が生じて来た。其《その》風も北西の風でないと好適とはいえないのである。若《も》し是等《これら》の条件が一つでも欠けて居れば、雪嶺天を界する壮観は到底望まれないものと思って誤りはない。

— posted by id at 06:24 pm  

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