そんなことでは、よい作品は書けない

「然し、」と友人は断乎として云う、「そんなことでは、よい作品は書けない。書かないでもよいようなものを書くのは、固より愚劣だが、よいものを書こうとする緊張感は、却って創作の邪魔になりはしないかね。緊張感のために硬ばった作品が余り多いじゃないか。」 さてそれは、分るような分らないような……私は一寸彼の顔を見守ったものだ。      *「君は象皮病というのを知ってるだろう。」と友人は別なことを云いだした。 その象皮病に、彼のうちの小猫がかかったことがあるというのだ。初めは単純な一寸した皮膚病くらいに思っていると、だんだん広がるに随って、毛がぬけてくる、皮膚に皺がよってくる、そしてその皺んだ禿げた皮膚が、こちこちに固くなって、丁度象の皮膚のようになってしまった。そうなると、もう回復の途はない……。「作品だってそうだろうじゃないか。」と彼は云うのだ。書こうという気構えからくる一種のポーズ――表面だけの緊張感、それはそのまま作品に感応して、表面がこちこちに固まった、云わば象皮病にかかったような作品になってしまう。そんな象皮病の下では、生きた血が自由に流れることは出来ない。脈搏はとまってしまう……。 それはそうだろう、が、例えば……と私が云いだすと、例えば……と彼はすぐに応じてくれた。例えば……徳永直の作品にそんなのがあった。いくらもあった。ところが、先月か先々月かの「火は飛ぶ」という作品は、あれはいい。象皮病がなおった作品だ……。 こうなると、彼はイデオロギーの問題を全く無視してるんじゃないかと、私はふと思うのである。が彼に云わせると、イデオロギーなんてものは、創作に於ては、やはり一種のポーズに過ぎないのだ。ブールジョア既成作家が、特殊な見方、特殊な取扱方、特殊な表現、そんなものに囚われて力み返るのが一つのポーズなら、特殊なイデオロギーの角度からばかり眺めるのも、一つのポーズだ。凡て物事は、弁証法的にはっきり見なければいけない。弁証法的にはっきり見る時には、あらゆる「ゾルレン」は当然否定される。「ゾルレン」を否定すれば、イデオロギーは、創作上、一つのポーズではないか。 単にイデオロギーばかりではない。広い意味で、凡て理想などというものもそうだ。理想を道具として使用してるうちはよいが、理想に囚われると外皮の硬化が将来される。林房雄の「青年」などは、素朴な思念に救われているが、あれがもっと年をとり、もっと凝り固まると――云いかえれば、詩が観念になると、案外、象皮病にかかりそうな恐れがないでもない。ましてや、公式的作品については云うまでもあるまい。

— posted by id at 07:11 pm  

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