傍観者の言

傍観者の言岸田國士

 昔から、文芸上の論戦ほど、読んで面白く、考へると馬鹿々々しいものはない。 面白いのは、尤もらしいからである。しかし、両方とも尤もらしいのだから、喧嘩にもなにもならず、そのくせ大にやり合つてゐるつもりでゐるから、そこが馬鹿々々しいのである。殊に相手の云ふことに耳を傾けない――傾けてもわからないらしい――論駁などは、甚だ愛嬌がある。「なるほどね、さういふ主張もあつていいね。但し、おれは、趣味として不賛成だがね。しかし、まあ、大いにやつてくれ。何れ、「もの」を見せて貰はう。案外感心するかも知れんよ」 大概の場合は、これで済むのである。「これかい、君の主張する傾向の作品といふのは。なるほど、変つてるね。だが、どうもおれにはよくわからんよ。わからないから駄目だとは云へないが、一寸好きにもなれず、さう感心もできないね。誰か佳いつて云ふものがあるのかい。へえ、その人はほんとにわかつてるのかね」 これで話のすむ場合も度々ある。不親切だと云ふなら、その後で「それにしても君、君の主張する処によれば、……なんだらう。此の作品では、さういふ処が、まだ、それほどしつかりしたものになつてゐないぢやないか。どうも危なつかしいぢやないか。そこに面白さがあるといふのかい、危なつかしい処に……? さうなつて来ると、僕は僕の審美観念を疑はなくてはならないが、僕は飽くまでも自分の立場を正しいとして物を云へばだね、君の此の作品は、君の主張を完全に生かしてゐない処に、致命的な欠陥があると思ふね。一歩進めて云へばさ、君は君の主張する傾向の為めに、文学そのものを犠牲にしてゐやしないか。まあ、待ち給へ、それも決して悪いとは云はない、そこに止まつてゐることが危険だと云ふまでだ。此の次の作を見せて貰はうぢやないか。芸術家は、絶えず、歩いてゐなくちやいかんさ。しかし、新しい道を探す為めに、方角を誤つたり、同じ処を堂々めぐりしてゐたりするのは考へものだからね。或る完成から脱け出ることも必要さ。しかし、それは次の完成へ向つての脱出でなけれやね、どうしたつて。少しお説教じみたね、処で、君は、僕の作品を旧いといふが……」「旧いよ、全く。物の観方、感じ方、表現のし方、丸で今までのものと変りはないぢやないか」「変りがなくつちやいけないのか」

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