カスペリイニイの曲馬場

 カスペリイニイの曲馬場は正面の入口が頗広い。併しその広い入口一つしか無い。入口が即ち出口である。さて午後興行に這入つた客が太平無事を楽んでゐるうちに、晩の興行に這入らうとする客が、なるたけ入口に近く地歩を占めようとして、次第次第に簇《むら》がつて来た。各《おの/\》番号の打つてある札を持つてはゐるが、遅く往つたら這入られまいかと云ふ心配をしてゐる。それは偽札が出たと云ふ噂を聞いたので、番号が重なつてゐるかも知れぬと思ふのである。そのうち群集が危険な大さになつた。曲馬を見ようとする段になると、大商店の主人も貧乏極まる織屋職工と同じやうに、神聖なる権利のために奮闘する。実は今になつて見ると、息張《いば》つて車に乗つて晩の見物に来た富豪が、心の内で現に場内の暖い席にゐる貧乏人を羨んでゐる。 元日は馬鹿に寒かつた。毛皮外套を被《き》ても、ゴム沓《ぐつ》を穿いても余り長く外に立つてはゐられない。せぎ合つてゐる人の体のぬくもりは、互に暖めはしないで、却て気分を悪くする。そこで老人連はもういやになつて来たが、一しよに来た若い人達は早く見たがつて胸を跳らせてゐる。兎に角皆気がいらつて来てゐる。 やつとの事で電燈がぱつと附いた。昼の興行が済んだのである。 入口に構へてゐた警部が呼んだ。「さあ/\皆さん。少しあとへお引なさい。両側へお寄なさい。道をあけて、中にゐる連中を出して遣らなくては。」皆さんと敬つて置いて、出して遣ると貶《けな》した所に、詞《ことば》に力を入れて呼んだのは、流石《さすが》気が利いてゐるが、その皆さんは一向引かうとしない。ロオデンシヤイドの上流社会は城壁のやうに屹立してゐる。やつとの事で今まで持ちこたへてゐる場所を、誰だつて人に譲らうとはしない。 そのうち場内のものが蠢《うごめ》き出した。大人は熱して浮かれて、子供は笑つてゐる。数千人が、早く帰つて晩食を食はうと思つて、場外へ押して出る。それが忽ち堅固な抗抵に遭遇した。かうなると力一ぱい押して出ようとするのは必然である。「皆さん。お引なさい。道をおあけなさい。」警部がいくら呼んでも駄目である。もう警部自身が群集の中で揉まれてゐる。巡査が数人それを救ひ出さうとして寄つて来たが、それもすぐに群集の中で揉まれることになつた。 もう外へ出ることも出来なければ、内へ這入ることも出来ない。双方共|背後《うしろ》から押されてゐる。中にちよい/\理性に合《かな》つた詞を出すものがあつても、周囲《まはり》の罵り噪《さわ》ぐ声に消されてしまふ。此場の危険は次第にはつきり意識に上つて来た。「おい。そつちの奴等が避けて入れれば好いのだ。」

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